「オーッス!」聴けば聴くほど感動の涙が
溢れてくる昭和の名曲あの歌この歌……
あなたに、“バタヤン”田端義夫のすべてを!!
昭和14年のデビュー曲『島の船唄』から『大利根月夜』『別れ船』『かえり船』『十九の春』など、《バタヤン》田端義夫のオリジナルヒットはもちろん、『旅笠道中』『船頭小唄』など懐かしの大正・昭和メロディー、『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』などの古賀政男メロディー、『男なら』『異国の丘』などの軍歌・戦時歌謡、はたまた『星影のワルツ』『大阪の女』などの戦後の流行歌までの、全72曲のボーカル曲に加え、なかなか聴けない、絶品ともいえる本人のギター演奏18曲を収録した、全90曲の《田端義夫》ベストアルバムといえます。 庶民派バタヤンが紡ぐ、味わい深い熱唱の数々を、堪能できます。さあ、あなたも、いまスグどうぞ。
人気商品につき、数に限りがあります。お早めにお申し込みください。
■田端義夫 -プロフィール-
田端義夫は1919年に三重県松阪市で生まれ、1939年のデビュー曲『島の船唄』が大ヒット。その後も『大利根月夜』『別れ船』『かえり船』『十九の春』など、数多くのヒット曲を世に送り出した。彼のトレードマークは、他のギタリストよりも遥かに高い胸の位置で弾くギターと、映画のタイトルにもなっている「オーッス!」という威勢のよい挨拶。1995年には日本歌手協会5代目会長を務めるなど、名実ともに日本のトップ歌手として走り続けたバタヤンだが、4月25日に94歳で亡くなった。

『かえり船』がヒットしていた当時、田端は巡業のために汽車を待っていた大阪駅にて、『かえり船』が流され、それを聴いていると復員兵士が涙を流して聴き入っているのを見て、「ああ、私の歌で涙を流す人がいる。歌手をやっていて良かったな、生きていて良かったんだな」と思ったことを後に著書(『オース!オース!オース!―バタヤンの人生航路』)に綴っている。
戦前から多数のヒットを持ちスター歌手であった田端だが、NHK紅白歌合戦の初出場は「島育ち」のヒットによる昭和38年(1963年)の第14回と遅い。これは紅白歌合戦が始まった昭和20年代、凄まじい人気であったがゆえに正月興行や地方公演のスケジュールが重なって出場が叶わず、昭和30年代に入ってからは一時低迷したため出場のオファーが無かったためである(岡晴夫も同例であり、岡の場合は後にヒットに恵まれなくなり、また本人の体調も芳しくなかったため生涯紅白歌合戦には出場しなかった)。
かつて、地方を巡業する際に、大型バスを改造した専用の車両で移動していたことがある。昭和30年(1955年)にいすゞ自動車が納入したもので、キッチン、トイレ、寝室、応接室などを備えた豪華なものであった。バスに水回りの装備をするのは当時はまだ珍しく、トイレ付となると、一般のバスでは1960年代以降の登場であり、画期的であったともいえる(参考:バスラマ・インターナショナル36号)。
『3時のあなた』の人気企画であった「おふくろ談義」の第1回のゲストが田端で、話の途中で司会の高峰三枝子は思わず号泣してしまい、田端もそれにもらい泣きしてしまった。
貧しかった幼少期、田端にとっての何よりのご馳走は、少ないお金で沢山買える紅ショウガであった。この思い出は大成してからも忘れる事無く、昭和30年(1955年)に苦労を共にした母が亡くなった際は棺に思い出の紅ショウガを花のようにして納めた。
昭和54年(1979年)、旅行でラスベガスに行った時にスロットで29万ドル(当時の円換算で6400万円)を当て、日米で話題になったことがある[3]。しかし大部分は税金などで持っていかれ、手元にはさほど残らなかったと本人は語っている。
「歌と女の人生」と立川談志などから揶揄されるほどの好色で知られ、齢70を過ぎてなお、「まだまだ(夜も)現役やで」と語った。ちなみに4度結婚(3度離婚)しており、次男は61歳の時の子である。
田端のトレードマークの一つでもある、登場時の掛け声(「オース!」)は戦後で客席に向かって何となくやってみたところ、客も「オース」と答えてくれたことから、それ以後ステージに出れば言うようになった。昭和20年代後半、美空ひばりとの公演の際には、ひばりの母から「オースはやめて下さいよ。(田端が)お嬢(ひばり)より拍手が多いのはオースのせいです。次のステージはオース無しでお願いします」と懇願されたことがある。
「同じキーで歌うことで声に張りが出る、苦しいからとキーを下げたら歌が沈んでしまうし、歌自体が別物になる。同じキーで歌えなくなったら歌手は辞める」という強い信念から、生涯すべての持ち歌のキーを下げず歌っていた。2オクターブの音域を維持するため、1日1時間の発声練習は欠かさず行い、タバコは一切吸わなかった。酒は少々嗜む程度であった。
田端のトレードマークとなっているサンバースト・ブラウンのエレキギターはナショナル・ギター社製の「Solid Body Electric Spanish(No.1124)」という個体である。元々2つあったピックアップは後年取り外され1つになり、それに伴って取り外されたフロント・ピックアップ用のボリューム、トーンの各つまみも取り外されるなど、長年の間に種々の改造がなされている。
購入のきっかけは昭和29年(1954年)、当時の付き人が大阪駅でタクシーのトランクにギターを忘れてしまい紛失。その数日前に銀座のヤマハで偶然見かけて試奏し気になっていたこのギターを思い出して連絡し急遽購入したものである。
長年の使用で塗装も剥げ、ボディーにも傷や減りがあったものの、塗装をし直すなどの補修でギターの音色が変わる事を恐れ最低限の修理に止めていた。
テレビ出演時はほとんどこのギターを用いたが、地方公演やごく稀にテレビでも別のタイプのギターを使用する事があった。
1960年代後半、音楽番組の収録で一緒になった「ザ・ゴールデン・カップス」のルイズルイス加部が、休憩時間に田端がトイレに行った隙を見計らい、田端のエレキギターを勝手に拝借しディストーションをかけてレッド・ツェッペリンの「コミュニケーション・ブレイクダウン」を大音量で弾いた。スタジオに戻った田端はその様子に大激怒し、ギターを取り上げるとそのまま帰ってしまった(「ベースマガジン」1992年2月号 ルイズルイス加部インタビューより)。
昭和59年(1984年)、ヘルペスに罹った際に聖路加国際病院でおこなった神経ブロックの治療に失敗し、一時下半身不随になったが、リハビリで奇跡的に回復した。しかし晩年まで後遺症による痛みがあったという。
オリジナルヒット/懐かしのメロディー
●島の船唄
●大利根月夜
●別れ船
●かえり船
●かよい船
●ズンドコ節(街の伊達男)
●玄海ブルース
●ふるさとの燈台
●肩で風切るマドロスさん
●親子舟唄
●島育ち
●十九の春
●人生の船はヨーソロ!
●旅姿三人男
●赤城の子守唄
●流転
●妻恋道中
●名月赤城山
●鴛鴦道中
懐かしのメロディー
●旅笠道中
●祗園小唄
●片瀬波
●野崎小唄
●忘られぬ花
●俺は船乗り
●勘太郎月夜唄
●赤とんぼ
●城ヶ島の雨
●上海の街角で
●むらさき小唄
●船頭小唄
●さのさ節
●星影のワルツ
●知床旅情
●大阪の女
●女のみち
●北酒場
軍歌・戦時歌謡
●国境の町
●麦と兵隊
●あゝ草枕幾度ぞ
●九段の母
●異国の丘
●戦友の遺骨を抱いて
●上海だより
●梅と兵隊
●母子船頭唄
●ハバロフスク小唄
●流沙の護り
●ほんとにほんとに御苦労ね
●男なら
●南京だより
●父よあなたは強かった
●ラバウル小唄
●可愛いスーチャン
●涯なき泥濘
古賀政男メロディー
●酒は涙か溜息か
●男の純情
●人生の並木路
●影を慕いて
●女の階級
●緑の地平線
●白虎隊
●白い椿の唄
●回想譜
●東京娘
●青春日記
●愛の小窓
●男のまごころ
●慈悲心鳥の唄
●さむらい鴉
●人生劇場
●青い背広で
ギター演奏集
●旅姿三人男
●人生劇場
●酒は涙か溜息か
●影を慕いて
●明治一代女
●男の純情
●夜霧のブルース
●大利根無情
●雪の渡り鳥
●網走番外地
●夜霧の慕情
●赤いハンカチ
●夕陽の丘
●おんな港町
●なみだ恋
●恋あざみ
●北の宿から
●岸壁の母